コロナ禍に定年退職を迎える恩師へ

雑記
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忘れられない先生

いい意味でも悪い意味でも、

自分の人生に大きな影響を与えた「先生」

が、誰にでも一人はいるんじゃないかと思う。

中学時代の先生

一番多感な時期だったからかもしれないが、中学時代に出会った先生たちから、私は多大な影響を受けた。

反抗期でもあり、反抗しながらもがきながら生きている私を、よく我慢して受け入れて育ててくれたと思っている。

そんな中でも特に、
中学時代の部活顧問の先生は、私にとって一生忘れない先生である。

中学時代

私は関西地方に生まれ育った。

関西弁の中でも取り分け言葉が汚いと言われる播州地域で。

今の時代では恐らく生徒に向けたそんな怒号は聞かれないと思うが、当時、授業においても部活においても、私たちは怒鳴り散らされて育った。

これが日常だった。

校則も厳しく、男子は丸坊主、女子は前髪は眉毛が見えるように、後ろ髪は肩まで、と決められていた。

テニス部に入る

第二次ベビーブームに生まれた私は、1学年500人超のマンモス校に通い、私が所属したテニス部には最初、確か30人近くが入部した。

ところが、あまりの部活の厳しさに、あれよあれよと辞めていき、最後は14人になった。

部は強かった。
私自身はいつも4番手、いわゆる補欠で強くはなかった。

朝練、放課後の練習、日曜、当時は週休2日制ではなく土曜日は授業が昼までで、昼からずっと練習だった。

陸上部か!ってくらい、いや、なんなら陸上部以上に走らされた。

テニスボール1つなくなったら、全員、ボール1つにつき外回り約1㎞を10周走らされた。

雨の日には階段の往復、 腕立て、腹筋、背筋、何十回を何セットもやらされた。

声が出ていないと怒鳴られれば、校門で校歌を大きな声で歌わされた。

1つ上の先輩にはいじめられた。
典型的ないじめで、コートの中に立たされて、スマッシュの練習と称して的にされた。
先生も恐ければ、先輩も恐かった。

ただ、2つ上の先輩たちは優しかった。

中学の1年生と3年生では体つきも違うし、1年生から見た3年生はもう立派な大人に見えた。

40半ばにもなると、2つ違いなんてそうそう変わらないが、中学時代の2つ違いは大差である。

私たちの学年に対するいじめは、その2つ上の先輩たちにより助けられた。
顧問の先生は1つ上の先輩たちをしめてくれて、更には、1つ上の先輩たちは学年集会も開かれることになり、いじめはなくなった。

その後、1つ上の先輩たちが大量に部を辞めた。

エースじゃないのにキャプテンになる

2年になって先輩たちが引退した後、私はキャプテンになった。

忘れもしない。

体調が悪くて部活を休んだその日、
新しいキャプテンと副キャプテンの発表があり、
私がキャプテンになったと副キャプテンが電話してきた。

キャプテンはエースがなるもんだと思っていた。
だから、4番手の私がキャプテンはおかしいと思った。

そして次の日、私はそのように先生に言いに行った。

先生の答えは簡単だった。

エース?関係あらへん。
お前がやれ。
以上。

そうして私はキャプテンになった。

その後、私がエースになることはなかった。

面倒くさい生徒

先生には逆らえなかったけど、違うと思ったことはいちいち言いに行った。
部員の多くの意見は伝えに行った。
それはそれは面倒くさい生徒だったと思う。

いちいち言いに行くたびに職員室中に響き渡る声で怒鳴られた。

当時先生は20代後半。
私も若くて元気だったが、先生も若くて元気だった。

何度も泣いた。
悔しくて泣いた。

部活で学んだこと

私たちは先生のいないところで、練習の厳しさと先生の怒号に対する不満と愚痴を吐き散らかして、笑いに変えて、そして励まし合って乗り越えた。

だからこそ、団結力は強かった。
団結力が強かったから、私はキャプテンとしてやりやすかった。

部活を通して私が学んだことは

  • 忍耐
  • チーム
  • リーダー

いい思い出

テニスを楽しんでいた記憶はない。

ただただ部活動というシステムが終わるのを耐え抜いた、という気がする。

まるでちっとも楽しい「いい思い出」なんてないじゃないか、
と思うかもしれないが、これが不思議なもんで、ちゃんと「いい思い出」になっている。

仲間と一緒に乗り切った感と、先生の怒号や態度はひどかったかもしれないが、
私には先生に対して絶対なる信頼があった。

私が先生の期待を裏切ったことは多々あったと思う。
でも、先生が私を裏切ったことは恐らくない。

キャプテンとしてどうにも部をまとめられない時には、先生が「俺がしめる」と言ってしめてくれた。

怒鳴り散らされてばかりだったけど、笑けるほど面白いこともたくさんあった。

試合に勝った時には一緒に喜んでくれたし褒めてくれた。

たぶん、当時は気付いてなかったけど、先生は私たち部員の事をよく見てくれていたと思う。

よくよく考えたら先生の言い方や口調はさておき、考え方は正しかったと思うし、年を取ってみれば先生のしようとしたこと、言わんとしたことがよくわかる。

ただ、当時の私は、やっぱりまだ中学生でしかなかった。
気付けない、わからないことがたくさんあった。

先生の事が大嫌いで大好きだった。

忘れもしない最大の反省

だいたい怒鳴り散らされた時には、ただただ黙って悔しくて泣いた。

でも、一度だけ先生に対して私は決して言ってはならないことを言った。

いつものように怒鳴り散らされた挙句、

「クソッ!ムカツク!死ねやボケ!」

とぶつけた。

「なんやてー!もっかい言ってみー!」
って怒号が倍になって返ってきて、走らされた。
なにかあったらとにかくすぐに走らされた。

頭にきて帰宅後、母にその事を話した。
その時の言葉も決して忘れない。

wmoon母
wmoon母

それは先生は悲しかったと思うよ。
「死ね」はないわ。
先生として、毎日一生懸命教えてる生徒に「死ね」って言われてみ?
どんな気持ちになる?
だいたい怒られたのはアンタが間違えてたからとちゃうの?
明日、先生に謝りなさい!

次の日、先生に謝りに行った。
先生は気にしてない風にしていたが、先生を傷つけたことは間違いない。

約25年ぶりの再会

中学を卒業してから、高校になってもテニス部に入った。
でも、そのテニス部を辞めたくなって、その先生に手紙で相談した。
当時は手紙か電話しか手段がなかった。

返事をもらってから高校のテニス部を辞めた。

だんだん年賀状を出すだけになり、年賀状も出さなくなり、先生がいまどこでどうしているのかもわからなくなった。

ところが約25年ぶりくらいに会うことができて、2人で8時間、飲んで喋り倒した。

当時の先生は髭をたくわえていたが、髭がすっかりなくなっていて違う人のようだった。
でも、声がその先生のままだった。話し方が先生のままだった。

もうあの頃のように怒鳴られることはない、
当時、真剣に話を聞いてくれていた時と同じ、あたたかく落ち着いた声だった。

一気に中学時代にタイムスリップしたみたいだった。
楽しくて嬉しくて、時間がいくらあっても足りなかった。

いつか大人になったら飲みに行きたいとずーっと思っていた私の夢が叶った。

恩師の定年退職

そんな先生が2021年3月末をもって定年退職となる。

私たちテニス部は先生のお祝いをみんなで集まってするつもりでいたが、新型コロナウイルスの感染拡大が止まらず、お祝いの会は延期することとした。

このコロナ禍で退職となり、盛大にお祝いをすることもできず、なんとも言い難い歯がゆさがある。

先生にはメッセージをスライドショーみたいな感じに編集して贈りたいと思っているが、どうなることやら…

またその後の事は後に更新しようと思う。

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